FRINGECULTURE 第一夜「梶原一騎生誕80周年/知られざる梶原一騎世界」を振り返る2016-04-13 Wed 23:35
※本文は4/6にFacebookに投稿した文章を加筆修正したものです。
![]() ●先月の30日に行われたネット配信イベント、FRINGECULTURE 第一夜「梶原一騎生誕80周年/知られざる梶原一騎世界」が終わって2週間が経った。 あの時の出演者のコメントや、やりとりを今でも時折脳内で反芻している。本当にあの一夜は梶原一騎ファンにとってのメモリアルな夜だったし、それを間近に見れて本当に良かったと思っている。 今回まず何がメモリアルかといえば第一に、梶原先生のご子息(長男・城さん、次男・一誓さん)がこうしたイベントに招かれて父について語った、ということ。これまでは先生亡き後、メディアで取り上げられる際には篤子夫人が矢面に立って語ってきた訳だが、その役割をこの2人が担うというが明確されたのである。妻の目から語られる梶原一騎から息子達の目から見た梶原一騎へ。今後も語り継がれるであろう梶原一騎伝説の、一つの変換期が今日だったのである! 今回幾つか話された中で一番印象深かったのが、イベントの最後に司会陣からご子息へ質問された、通称“軍艦御殿”と呼ばれる梶原一騎邸の今後についての話だ。その点は私も随分前から非常に気になっていた。よい形で残そう、という動きはあること(進展状況はともかく)を知れたのは収穫でしたし、やはり考えていてくれたんだと安心しました。 ●そしてもう一つ。当人たちは謙遜して深く話さなかったが“マンガ地獄変”が梶原ファンにとって如何にエポックだったかを改めさせられたこと。私は今まであの本の執筆者達は元から知り合い(=ファン同士)で、その流れでの刊行だったとばかり思っていた。でも実は出版社サイドの企画によって執筆者達が集められ、互いに初めて出会ったということに驚くと共に、その運命の偶然に喜んだのです。その本の完成に至るエピソードは(一部分は軽く話していましたが)かなり興味深いので別の機会に是非やってほしい! “マンガ地獄変”…1990年代後半のファンにとってどれだけ貴重な一冊だったか。インターネットの普及した以降の梶原ファンは、この本の影響下にあるといっても言い過ぎではあるまい。ダーク梶原ワールド、人間兇器再評価、数々の裏エピソードなど、今でも語られる“ネタ”の原点ですかね。斉藤貴男氏の評伝に始まる梶原再評価の流れは、ここから始まっていたんだし、この二冊との出会いがあったから自分もネットでサイトを作ったのです。 ノンフィクションの世界は“夕やけを見ていた男”が開拓してしまった。 サブカルチャーの世界は“マンガ地獄変”メンバーにかなわない。 では自分は何があるか…考えた末の結論がデータベース構築だったのです。この時点で発表されてる年表はどれも不完全であることが『これなら自分にもできる!』と思った訳ですね。 スポンサーサイト
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『火乃家の兄弟/青春山脈』2015-11-22 Sun 15:23
※本文はFB『梶原一騎生誕80年サイト』と同文です。
梶原一騎の少年マガジン史においては、『愛と誠』に続く作品になります。 諸説考えはイロイロあるでしょうが、梶原一騎の劇画原作者としての絶頂期は 作品的には『愛と誠』であり、講談社出版文化賞(児童まんが部門)を受賞した1976年前後だと私は考えています。 さて、劇画原作者として自身の得意分野でスポーツ物はあらかたやり尽くし、脱スポ根としての現代恋愛物も書き尽くしてしまった感もあった当時。 次の展開として手がけ始めた素材が、“昭和浪漫モノ”ではないでしょうか。 今後、幾つか紹介していきますが、この時期連載される作品の多くは太平洋戦争を前後とした時代を設定としています。 本来作家志望であった梶原一騎が、自身のステイタスや手がける作品のスケールアップを図る狙いの一作。その一つが『火乃家の兄弟/青春山脈』だったと思います。 しかし、少年マガジン読者層や漫画のトレンドが“ライト感覚”に変わっていく中で狙いが作家と読者の間でズレてしまったことで、過去作レベルの人気に至らなかったのではないでしょうか。 「諸君の若さ、諸君の青春は、なにも突然、この日本に出現したわけではない。過去、おなじ血のながれた父や母、また兄や姉の若き日が、青春があったればこそ、現代があり諸君がいる。私は『青春山脈・火乃家の兄弟』で、この熱い血と涙でつづられてきた青春の歴史を、いわば父母の国・日本の青春山脈のつらなりを、えがきぬいてみたいと思う。これ以上は言わぬ。作品がすべてを語り歌うであろう。」(週刊少年マガジン1977.14号 新連載予告より) ![]() ![]() |
僕たちの、あしたのジョーの時代・備忘録 その7(第1部・最終回)2015-03-29 Sun 17:12
本日2015年3月29日(日)。
今から35年前の現在では『あしたのジョー』が劇場公開されていたんですねぇ…。 --------------------------------------------------------------------------------------------- 7回に渡ってお送りした「僕たちの、あしたのジョーの時代」。1980年編もいよいよ最終回です。あの頃のジョーに関する自身の記憶と資料を元に様々な考察してきましたが、残る最後のテーマとして選んだのは “1980年のジョーブームとは何だったのか?”です。 今回、当時の資料をアレコレ探っていった中で、唯一見つけた“ジョーブーム”を取り上げた記事がコレ。 ![]() ↑週刊読売 3/9号より。 本文が指摘するジョーブームとは、古書店での週刊少年マガジンのプレミア化現象(※特にジョーが表紙のものは保存の状態によっては1冊1000円前後の価値がついているらしい)。インタビューに答えるちば先生も、訪れたファンに描くキャラクターでの人気はジョーがダントツであると語っている。また、1昨年FCを立ち上げた2つのFCの主催者(当時19歳・男性と24歳・女性)へのインタビュー。両者いずれともリアルタイムで作品に触れてはいるものの深さに気づかず、アニメの再放送をキッカケに再燃したと語っている。 ![]() 他にもデータとして、映画公開にあわせての日本テレビでのTVアニメ再放送の第一回視聴率が27.9%と高視聴率で、KCやちばてつや漫画文庫とあわせてコミックスの売れ行き(累積800万部)、イラスト集は4万部で発売当日に重版決定、アニメコミックスも売れ行き好調だとか。 さらに制作側のスタッフの裏話として、原作の直撃世代(30代前半)という紹介の流れで“やろう!”と盛り上がるのは同世代の社員達で上司達の世代には“今更そんなもの”と説得に苦労したと語っている。それを打破する戦略としてジョーがいかに人気がある作品かを証明させるべく、前年夏(1979年)全国の映画館でファン調査としてジョーへのラブレターを募り(注:この時の投稿ハガキの一部はロマンアルバム「あしたのジョー」に紹介されている)結果約1万通の大反響であった、という。 ![]() 記事は、このジョーブームを連載当時のファン、第一回テレビ放送のファン、再放送時のファン、そんな積み重ねが、三月封切りの劇場用アニメを機に一気に爆発したのだと分析していた。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- 昨年、イベント“あしたのジョー、の時代展”開催、2015年夏にはトムス・エンタテインメントのアニメ制作50周年を記念してアニメのジョーも取り上げた“スポ根展”開催。大泉学園駅にはジョーの銅像が新設と話題の途切れないメジャーコンテンツとして存在する「あしたのジョー」。 しかし、1980年の劇場公開以前はどちらかと言えば地味な、かつて世相を賑わせた懐かし漫画(アニメ)的なポジションだった。当時ティーンを中心に盛り上がっていたアニメブームも、そのメインストリームは宇宙戦艦ヤマト(及び999等の松本作品)や機動戦士ガンダムであり、アニメ雑誌ですらジョーを取り上げるのは映画公開にあわせたパブリシティのみという状態であった。 ビデオが一般家庭に普及する数年前での再放送はテープに声を録音するしか方法はなく、漫画もコミックスだけ。自らの想いを発散する方法にはアニメ等にイラストを投稿するとかFCに入会する位か。つまり個々に募っていた作品に対する想いを、共通のイベントとして立ち上がったのが『劇場版 あしたのジョー』だった。 この映画をキッカケに好きになったものもいただろうが、その中心にあったのは作品を愛し続けたファンの力だろう。この劇場版と付随する関連商品、ムック等を収集し互いの交流を深め、作品の製作者への証言の掘り起こし、考察され、語られ、更にはTV版「ジョー2」、劇場版2の製作へと展開することで『あしたのジョー』が古典の域に達した、というのが自分の考えである。 全てはこの1980年から始まったのだ。そしてその瞬間に立ち会えたことをファンの1人として嬉しく思っている…。 第1部・1980年編 =完= ※第2部・1981〜2年“ジョー2の時代”編での再開をお楽しみに! |
僕たちの、あしたのジョーの時代・備忘録 その62015-03-19 Thu 00:06
1980年3月8日(土)。
幾度かの公開日変更の末、ついに劇場版『あしたのジョー』がロードショー公開されました。それから数週間の、東京での集客データは前回で取り上げた。では観客の反応はどうだったか? まず自分自身の記憶を辿ると…“感動した!”とか“面白かったぁ”といった感想は抱かなかったように思う。この時(中学二年生)単行本全巻所持し熟読している自分にとって、ストーリーの展開は充分に分かっていたから。だから2時間半の間、本編に何のエピソードが使われ、何のエピソードがカットされたかを擦り合わせながら観ていたんだと思う。唯一覚えているのは大好きなウルフ戦があっさり終わったのが不満だったこと。無論全てのエピソードを入れるのは不可能なことは分かっているが、それでも“物足りなさ”を感じてしまった映画だった。 では、ジョーファンはどうだったか? その資料として当時のあるFCの会報を見る機会があり、その作品の感想投稿に目を通してみると概ね自分と同じような“総集編的な”ダイジェスト版な内容に不満を感じる声が多かったようだ。他には声優のキャスティング…とりわけマンモス西の声をあてた岸辺シローへの厳しい意見もあがっていた。当時のアニメ界の様子が伺えて面白かったのは、作品のヒットで続編が作られたら嬉しいが“宇宙戦艦ヤマト”みたいになるのは嫌だというものw。映画公開によって好きな作品が注目されることのファン側の嬉しさと、そこから変にメジャーなものになってしまう可能性への危惧が読み取れました。 最後に業界紙での評価はどうだったか? 前回の資料探索の流れで見つけた『キネマ旬報』の読者投稿が、自分と上記FCも含めた気持ちを上手く表現しているので紹介したい。投稿者は20代半ば、マガジン連載時に中学〜高校時代を過ごしたと思われる。 “(前略)アニメブームを反映して集まった子供はともかく、僕らの世代の観客に共通して流れる気分は、明らかにノスタルジーの一種である。(略)これはこれなりに見事な「あしたのジョー・ショー」だった。(略)力石とジョーの関係を一本の太い線に、名場面を配したシンプルな構成は、その分ディテールに説明不足の箇所が出てくるものの、原作のイメージを損わず、変な演出家意識を出さなかったのが何よりもいい。いや、映画は実際、何も語ろうとはしていないのだ。(略)エピソードの断片が、そのまま僕ら自身の記憶の断片になりえるほどの原作の興奮に裏打ちされて、映画は、画面ではなく、その向うに見える時代の感覚を、呼び起こそうとしていただけなのかもしれない。言い換えれば、風景を見る感覚に、よく似ている。(後略)” 予備知識ゼロの状態で初めて「あしたのジョー」に触れた、という観客ももちろんいただろう。しかしその主たる観客にとっては、この劇場版に対する想いというか感覚は上記に近かったのではないだろうか?通常の映画を“観に行く”という行為とは少し異なった“確認しに行く”ようなものだったのかもしれない。 (その7へ続く) ![]() |
僕たちの、あしたのジョーの時代・備忘録 その52015-01-04 Sun 22:08
1980年3月8日土曜日、『あしたのジョー』がついに劇場公開。
映画誌「キネマ旬報」に掲載された連載頁“映画街”によると以下のようなレポートが書かれていました。 【3月2週の土曜日8日にはS・スピルバーグ監督の「1941」(COL)とアニメ「あしたのジョー」(ヘラルド=富士)が“春興行”の先陣を切ってスタートした。(中略)また、丸の内東映パラス、新宿東急、新宿東映パラス、東急レックス、池袋東急、上野東急、浅草ロキシーの都内7館で公開された「あしたのジョー」は、好況だった前売状況を反映して予想通りに好スタートをきり、初日動員14,893人、興収1,580万3,956円、2日目動員26,433人、興収2,811万3,421円、2日間合計で動員41,326人、興収4,391万7,377円とヤング層を集めてヒットした。また2日目日曜日の成績を昨年同チェーン(8館)で大ヒットした「銀河鉄道999」のそれと比較すると、動員で若干上廻っており、スタートを他の春興行作品より1週間早めたことが成功の要因といえよう。】 翌週(3月第3週)には「ドラえもん・のび太の恐竜」(東宝)、「東映まんが祭り」(東映)、「遥かなる山の呼び声」(松竹)「ジャスティス」(COL)「火の鳥2772・愛のコスモゾーン」(東宝)、「家なき子」(東宝)、「矢沢永吉ラン&ラン」(富士)、「ナオミ」(東映)が公開。加えて大ヒット中の「地獄の黙示録」が(ヘラルド)が公開拡大された。 上記の初日&2日目の動員数も掲載されているので、アニメ作品のそれと「ジョー」を比較してみよう。 「ドラえもん・のび太の恐竜」→初日17,120人、2日目39,340人 2日間合計56,460人。※全国主要10館計 「東映まんが祭り」→初日17,220人、2日目51,010人 2日間合計68,230人。※全国主要9館計 「火の鳥2772・愛のコスモゾーン」→ 2日間合計13,238人。興収1,467万3,458円※都内5館計 上映館数の違いもあるが、他の作品と比べても遜色のない好調な滑り出しといえるのではないか。 なおこの記事頁には「あしたのジョー」公開初日風景の写真が1枚掲載されていた。私が今回資料としてコピーしてきたのが縮小サイズだったのでここには掲載できなかったが、入場口に列をなすファンの姿は公開当時の熱気をうかがえるようで見つけた時は嬉しかった。実際こういう写真を撮っていた人はいたはずだと思うけど、是非見てみたい。 続く「キネマ旬報」“映画街”の頁。3月第4週の公開作品は 「パパ」(WB)、「象物語」(東和)、「宇宙怪獣ガメラ」(大映)。詳細は省くがこれらは低調なスタート切り、「ジョー」は動員15,213人。前週の日曜対比で69.9%だった。そして第5週の公開作品に「悪魔の棲む家」(ヘラルド)、「ローラー・ブギ」(松竹=富士)。「ジョー」は動員13,523人。前週の日曜対比で88.9%だった。 そして次号の“映画街”の頁は4月第2週のデータが掲載。上映館数が一つ減って6館で動員8,939人。前週の日曜対比で89.9%だった。 「ジョー」の映画に関するリアルタイムレポートはここで終了し、翌年に1980年を総括するデータ頁に最終的な結果が掲載された↓ 公開日数49日、動員数297,306人。興行収入3億1,446万7,000円という結果である。 注:文中の金額単位について。1980年の大卒初任給の平均が10万で、昨年(2014)が20万だそうです。 ![]() ↑以前に発見した週刊読売の特集記事とキネマ旬報の連載頁 ![]() ↑劇場版1作目の宣材やパンフ、前売りやチラシの数々。 |